ラベル 善知鳥 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 善知鳥 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026-10-27

能 「善知鳥」

 

2026年9月27日(日)

銕仙会能楽研修所 青山能

狂言 酢薑 野村万之丞

能 善知鳥 長山桂三

世阿弥元清作の能「善知鳥(うとう)」を鑑賞する機会があった。観終えたあと、胸に残ったのは、親子を引き裂く仕事を背負った一人の鳥刺しの痛みだった。

「善知鳥」は、「鵜飼」「阿漕」と並び、当時の社会で低い身分に置かれた人々を主人公とする謡曲の一つである。
能の演目には、神や貴人、武将などさまざまな人々が主人公として登場することが多い。
 そのなかで、鳥を捕らえて生計を立てる一人の男を主人公とし、その罪と苦しみを描く「善知鳥」は、私にはひときわ印象深い作品だった。
 物語では、善知鳥という親子鳥を殺して生計を立てていた鳥刺しが死ぬ。彼は地獄で、殺した善知鳥の霊に責めさいなまれる。けれど鳥刺しも、妻子と自分の暮らしを守るために、親子鳥を殺さずにはいられなかった。
 モーツァルトのオペラ「魔笛」にも、鳥刺しのパパゲーノが登場する。彼は主人公を導く案内人だ。同じ鳥刺しという存在でも、西と東では作者が担わせる役割はずいぶん異なる。パパゲーノは、劇中「パパパパパパパ・・・」といとも軽やかに恋心をうたう。
 舞台は、前段が立山連峰のふもと、後段が青森・外ヶ浜である。「善知鳥」という鳥は、親子の呼び交わしによって知られている。母鳥が「うとう」と呼ぶと、子が「やすかた」と応えるという。能「善知鳥」は、この親子鳥の伝承を、鳥をとらえる男の罪と苦しみに結び付けている。外ヶ浜には、いまも善知鳥神社がある。
後段は、藤原定家の「みちのくの外の浜なる呼子鳥 鳴くなる声は、うとうやすかた」で始まる。その一節が、遠い土地の冷たい海辺へと観客を連れていく。
なぜ「善知鳥」は、今の私に響いてくるのか。鳥獣を殺してはならないという仏教思想と、殺さなければ家族の命をつなげない人間の現実。その逃げ場のない葛藤が時代を超えて、見るもの自身の問題として立ち現れるからではないか。
 いま放送中のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」も終盤に入り、いつになく湿度の高い場面が多い。戦争で疲弊する農民を背負う豊臣兄弟にとって、「殺さなければ勝ち取れない平和」という葛藤が、繰り返し主題になっているからだろう。主人公の秀長は、いつも戦争を避けるための板挟みになり、心境を吐露しながら切り抜けてゆく。
 「善知鳥」の筋を細部まで知らなくても、「悲しみ」「哀れ」「憎しみ」、そして「おっかさん!」という叫びは届く。何かを守ろうとする行為が別の苦しみを生むという構造を見せられることで、葛藤を抱えた心にもひと時の解放を感じることができる。
 舞台を見終え、演者の後ろ姿に我が身を重ねながら余韻に浸る。戦国の武将も、江戸時代の能楽のパトロンも、そして現代を生きる私たちも、同じような時間を味わってきたのかもしれないと思うとなぜかほっとする。
 それは、ずいぶん豊かな時間に思える。葛藤そのものは解決しない。それでもほんのひととき、心の荷を下ろすことはできる。
年齢を重ねるほど、謡曲が扱うテーマは深いところで自分に刺さってくる。

新潟側から 後立山連峰