2025-04-01

昭和映画100年祭 「緋牡丹お竜参上」 1970

 緋牡丹博徒 お竜参上! 

 制作 1970

 監督 加藤泰

 脚本 加藤泰 鈴木則文

 撮影 赤塚滋

 編集 宮本信太郎

 出演 富司純子、菅原文太、嵐勘十郎、安部徹、長谷川明、若山富三郎

あっというまに1時間40分が過ぎたのでおもしろかったのだと思う。はて?と躊躇している余裕を観客に与えなかった。時は明治の始め 浅草ロックの興行主の縄張り争いにまき込まれるお竜姉さん。任侠は、義理と人情というが、ストリーは、不義理、非人情あってのHERO、ヒロイン。ヒーローもヒロインもよく義理をたて、人情あつい。定番とはいえ。反社会勢力にはかわりない。この頃の映画では、まだ博徒は、世間からはみだしてしまった後ろめたさ、悲しみ、孤独を抱えていたようだ。少なくとも映画を作る人たちには、共感できるものがあった。1970年日本社会が、いよいよ高度成長の波にのり始めたころ。企業戦士は、自立して親分に立ち向かう渡世人に夢をみたのではなかろうか? 渡世人から極道へ 任侠映画は、昭和・平成・令和と社会の変化に応じて映画のテーマも変わってきた。 任侠は、暴力団と反社会勢力とレッテルを張られ、暴力団映画では、暴力シーンが増長されている。 暴力の起爆剤も義理・人情から縄張り争いに変わる。映画の人間描写は、ステレオタイプになり、暴力に理由、言い訳はいらないということになったのではないだろうか。

 1970年公開であるが 制作は1960年代後半、 社会は60年、70年安保の集団のパワーが席捲していた時代、 高度成長期にむかいつつあり、社会全体に活気とエネルギーがたまりつつあった時代ではないだろうか。 映画は、娯楽の最先端であった。娯楽は、社会のエネルギーのパワーバランスの役割を果たしている。 娯楽が多様化している現代にあってこの時代の映画産業を考察することはそれなりの意味があるように思った。 任侠映画がなぜブレークしたか? 集団に対しての個、世間に対しての裏社会、義理人情に対しての不理・非情、非暴力と暴力、男社会と女、映画に非日常を求めていたとすれば見る側の社会は、集団や組織に飲み込まれそうな生活、 暴力とは縁遠い平和な生活裏社会を感じない表社会、女が存在しない男社会、義理人情のない味気ない生活だったのかもしれない。
 昭和はそういうパワーバランスをもつ社会だったのかしれない。 警察が入る前にかたづけようとする任侠のやり方は、話し合いでなく暴力でねじ伏せるというやり方。少数の博徒を集団で襲う。なぜか少数側には、見せ場があり印象的な死に方が用意されている。 ここでは集団があくまでも悪なのである。集団の力に頼りながらも悪という矛盾をいやっというほど画面いっぱいに押し付ける。 武器は日本刀とピストル。 侍映画と違い、こちらの殺陣はへっぴり腰の刀を突き出す無手勝流。なのにヒロイン、ヒーローは腰が入り、侍のようだ。 出入りシーンでは、集団は大いにコケにされる。それを見て爽快、やった感を感じるから映画は、面白い。 親分-子分の組織を尊重するが、それも親分の器量しだい。 尽くす礼は、親分でも末端の子分でも知っている。 そんな裏社会が浅草の興行を支えていた。 器量のよい親分は、気質の客たちを大事にしている。縄張りを守ることは、お客さんも守るという論理があった。嵐勘十郎が器量のある親分の風格を体現していたのが印象的だった。死に際の言葉が「喧嘩をするな」 で一旦幕引きかと思わせたが。 そのあとの展開では、はやる子分たちを抑え、客人のお竜が義理に報いて悪役親分の成敗に一人乗り出す。 それを助ける渡世人文太、文太はお竜を守って壮絶な死闘を繰り広げる。 ラストは文太をかばうお竜の女らしい表情のドアップ。お竜は、生き。文太は喧嘩の責任を取るべく死んでゆくが、詳細不明。ただ「この始末、私につけさせてくれ」ということになっている。あの致命傷をひきづってどうやって始末つけるのかなという疑問がのこったが・・・ 脚本を書くのは楽しかっただろうなと思った。 途中若山富三郎が狂言回しで出演、かっこよくお竜を助けてみせる。ご愛敬というか緊張感の高まる前のひと休憩だった。そのあとの展開のスピード感がすばらしい。 もう一つすばらしいのが、富司純子と文太が賭場をはさんで対峙するシーンと、 やはり二人が雪の降る太鼓橋の上で触れず語らず交流するシーンの印象的な美しさ。練られて、その当時の映画人の心意気が感じられる場面であった。やっぱり日本人の緊張感ある美意識は秀逸である。 (2025.4.1 丸の内TOEI)

「博徒」とは、賭け事を生業にする人をさす日本語です。

日本の文化の中で賭け事、博打は、見逃せない流れをつくっています。平安時代末期の後白河法皇(1127~1192)の「賀茂川にすごろく流す なにしにぞ」(賀茂川にすごろくの盤を流して、何をしようというのか)は、当時の巷のはやり歌を集めた「梁塵秘抄」の一節にあります。「すごろく」は、すでに貴族だけでなく庶民の楽しみのひとつになっています。 後白河法皇は、「すごろく」の賽の目の不確実さに人生の浮沈や諦念を見ていました。

 「すごろく」だけでなくこうした遊びは、賭け事に発展し、それを生業にする人たちが現れます。集団として賭け事が生業として社会的に認知されるようになったのは江戸時代になってからです。縄張りをもたない「渡世人」タイプと 地域を守る『侠客』タイプがありました。侠客には、縄張りがあり地域を守るという役割をになっていました。庶民に人気のある清水の次郎長(志静岡県)、竹垣五郎(江戸・浅草)、大前田英五郎(埼玉県・群馬県)、黒駒勝蔵(山梨)会津小鉄(京都)、笹川繁蔵(千葉県・天保水滸伝のモデル)国定忠治(群馬県)彼らは幕末まで「弱きを助け、強きをくじき」と庶民に慕われ多くの劇作のモデルになっています。また西郷隆盛、勝海舟、新選組との交流を持つ親分もおり、集団の力をもって社会構造変革期に貢献しました。明治政府が近代化の一環で賭博を厳しくとりしまると賭博を生業にするものは地下に潜り生業を継続しようとします。組織化された集団は、賭博だけでなくみかじめ料をとりたてるようになっていき、暴力団、反社会的勢力として社会の裏側という位置づけになっています。



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