
今年の復活祭は4月5日。それまでの約一ヶ月間は「四旬節」と呼ばれ、キリストの受難を思い起こす時期です。とくに最後の3日間は聖木曜日・聖金曜日・聖土曜日と名付けられ、信仰的な意味合いの強い日々となります。私は今年初めて、マタイ福音書に基づくバッハの大作「マタイ受難曲」を、鑑賞する機会に恵まれました。
バッハは新約聖書の4つの福音書それぞれに基づき受難曲を作曲しましたが、その中でも「マタイ受難曲」は三時間半にも及ぶ、宗教音楽の頂点とされる大作です。オーケストラと合唱団、複数のソリストたちが織りなす重層的な響きは、ドラマティックでした。小学校の頃にみんなで見に行った「偉大なる生涯の物語」という映画のシーンが思い出されました。
舞台には日本語訳の掲示もあり、ソリストの語る聖書の物語が、合唱やオーケストラが一体となって立ち上がるのを、物語を「読む」というより「体験する」感覚で味わうことができました。 バッハは苦しみや裏切り、嘆きだけでなく、赦しや救い、かすかな希望に至るまで、人間の感情の揺れを音楽で緻密に描き出していました。悲痛なコラールのあとに差し込む柔らかなアリアや、厳しい場面に潜む温かな和声の動きなど、重苦しさ一色ではない多様な感情表現の豊かさに、何度も胸を突かれる思いがしました。
この音楽の世界は、遠い過去の物語を語りながらも、現代社会における苦しみや分断、暴力の記憶をも静かに映し出しているように感じられます。バッハの「マタイ受難曲」は、イエスの遺体が墓に葬られる場面で幕を閉じますが、その終結は絶望の固定ではなく、「この先に何があるのか」という問いとともに、聴き手を祈りや希望の方向へとそっと押し出していきます。 国や時代、立場を超えて、誰もが何らかの「苦難」を抱えて生きている今、この音楽は「苦しみのただ中で、人はどう希望を見いだし得るのか」「赦しや連帯は可能なのか」といった、普遍的で避けがたい問いを私たちに投げかけているように思えました。
キリスト教は、ユダヤ教の伝統に深く根ざした荒野の宗教です。そして7世紀には、アブラハムを共通の源流にもつ同じ一神教イスラム教が生まれました。三つの宗教はしばしば対立や誤解の歴史とともに語られますが、その根にはいずれも、神の前に立つ人間の小ささと、そこから生まれる祈りや希望というモチーフが通っています。 とはいっても異なる宗教・文化の人々が、十字架刑という出来事を描くバッハの受難曲にどう向き合うのか、ひとことで語ることはできません。それでも、苦難の物語の只中にあっても耳を澄ませば、この音楽が人間の尊厳や、見えない他者へのまなざし、そして神の声とも呼びうる静かな呼びかけを伝えてくれている――そのように感じました。マタイ受難曲は、特定の信仰を持つ者だけに閉じられた作品ではなく、三宗教をはじめとするさまざまな信仰・不信仰の人々にも、「希望」をめぐる対話の場を差し出しているのかもしれません。
本公演を指揮した佐々木氏が、この作品にどのような思いを託していたのかも知りたくなり、終演後、自然とパンフレットへと手を伸ばしている自分に気付きました。舞台上の音楽だけでなく、その背後にある祈りや問いにも耳を傾けたい――そう願わずにはいられない鑑賞体験でした。
老体?に鞭打って合唱に参加した友達に感謝とエールを!! 私も頑張る!



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